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唯識とは(つづき) [『正信偈』を読む(その86)]

(3)唯識とは(つづき)

 昨日ぼくは奥三河の鳳来寺までドライブを楽しみました。これはぼく自身がしたことですから「見てきたような嘘」ではありません。でも、誰かから「そんな事実はどこにあるのか」と言われたらどうでしょう。事実としてはもはやどこにもありません、すでに終わってしまったことですから。「いや、待てよ、写真を撮ったはずだ、あそこに事実が残っているじゃないか」と言うとしましても、その写真のどこに「過去」があるのでしょう。それは隅から隅まで「現在」で、どこにも「過去」は見当たりません。
 写真のどこかに「過去」があるのではなく、それは「過去」を〈想い起こす〉ための「現在」の手がかりにすぎないのです。
 歴史の「記録」にしましても、それを手がかりにして「過去」を想い起こすしかありません。歴史家と言われる人たちはさまざまな手がかりを元に「過去」を想い起こす作業をしているわけで、その手続きに問題があれば、歴史の偽造につながるのです。いかがでしょう、ご自分で存分に検討していただきたいのですが、「過去」とは「想い起こされるもの」でしかありません。つまり表象でしかないのです。では「未来」は、「現在」は、と思いは拡がっていきますが、今は「過去」という広大な領域が表象の世界であることを確認するだけにとどめるしかありません。
 表象の世界とは意識の世界に他なりませんが、唯識はこの意識の深い地層に探針を下ろし、驚くべき構造を明らかにするのです。
 さて、このような唯識の哲学者である天親と、浄土を説く天親とはどのようにつながるのでしょう。中観の哲学者・龍樹と浄土の教えも重なりにくいですが、唯識の哲学者・天親と浄土の教えもその接点を見出すのがなかなか難しい。大乗の二大潮流のいずれにも浄土教が寄り添っていることには興味をそそられますが、今のぼくにはそれをすっきりと明らかにするだけの力がありません。課題として残して先に進みたいと思います、『浄土論』の天親についてです。


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