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一心 [『正信偈』を読む(その88)]

(5)一心
 
 以前お話しましたが(「はじめての『教行信証』」)、親鸞はこの「一心」の問題を『信巻』でかなりのスペースをとって論じています。「三心一心問答」と呼ばれ、『信巻』のハイライトと言えます。第十八願の至心・信楽・欲生の三心と天親のこの一心との関係を問題にしているのです、どうして本願では三心なのに、天親は一心と言うのかと。それだけ聞きますと、何が問題にされているのかよく分からない。ピンとこないのですが、じっくり読みますと、親鸞は今問題にしていること、つまり、われらにほんとうに一心はあるのかということを考えているのです。
 「三心一心問答」をおさらいしておきますと、まず本願の三心は、みな「疑いのない真実のこころ」ということで、結局のところ信楽の一心に集約されるのですが、ではどうして本願では至心・信楽・欲生の三心を持ち出しているかというと、その「疑いのない真実のこころ」などというものは元々われらの中にあるはずがなく、如来から賜ったものであることを至心・信楽・欲生の三つのこころに開いて丁寧に明らかにしようとしているのだ、ということでした。
 「われ一心に」と言うのですから、天親自身が元々「一心」を持っているように見えますが、しかしそんなものがあるはずはなく、如来から賜ったのだということです。「われ一心に」と言っているのは紛れもなく天親ですが、その一心は実は如来から回向されたものであることから、先の「わけの分からない」文章になるのです。一見すると主語は天親に思えますが、実は阿弥陀如来がほんとうの主語であるという二層構造です。
 見かけの主語とほんとうの主語。そう言うとき、「見かけ」なんかどうでもよくて、大事なのは「ほんとう」だとしてしまいたくなりますが、しかし「見かけ」の他のどこにも「ほんとう」はありません。その意味では「見かけ」こそ「ほんとう」なのです。でもやはり「見かけ」は「見かけ」で「ほんとう」ではない。他力の秘密はこのあたりの微妙なところに隠れているようです。
 

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