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「見かけ」と「ほんとう」 [『正信偈』を読む(その89)]

(6)「見かけ」と「ほんとう」

 天親は『浄土論』で、往生のための五つの行(五念門と言います)を上げています。「礼拝」、「讃嘆」、「作願」、「観察」、「回向」です。これを素直に受け取りますと、われらがこの五つの行を修めることによって往生することができるとしか読めません。ところが、親鸞はそれは「見かけ」だというのです。
 「ほんとう」は法蔵菩薩がこれらの五つの行を修めてくださり、それをわれらに与えてくださったのだと。五念門は「見かけ」ではわれらの行ですが、「ほんとう」は如来の大行だということです。しかし「見かけ」なんて意味がないから捨ててしまえ、というのではありません。その「見かけ」を離れてどこかに「ほんとう」があるわけではないのです。
 「一心」に戻りますと、ぼくらはつい、ぼくら自身が一心に何かをなしうると思っていますが、それは「見かけ」にすぎません。「ほんとう」の一心でないことは、すぐばれてしまいます。でもときに、「見かけ」の一心を通して「ほんとう」の一心が感じられるときがあります。それは、こちらから一心になろうとするのではなく、ふともうすでに一心になっている自分に気づくということです。
 前者は、いくつか気になることがある中で、ひとつのことを選んでそれに心を集中しようとすることですが、後者は、選ぶも選ばないもなく、あることに心を占領されているということです。こちらから選ぶのではなく、向こうから選ばれている。その結果として心はひとつになっているのです。親鸞が「ふたごころなくうたがひなし」(『尊号真像銘文』)と言うのは、この「一心」のことです。
 こちらから一心になろうと思っても、そうはさせないぞといろいろな煩悩がしゃしゃり出てくるものですが、しかしふと一心になっていることに気づくときは、もうそこに迷いや疑いのはいる余地がありません。ぼくが一心を選んだのではなく、一心がぼくを選んだのですから。このような「ふたごころなくうたがひなし」の一心を親鸞は「すなわちこれまことの信心なり」と言うのです。

            (第12章 完)

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