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「いま、ここ」 [『正信偈』を読む(その94)]

(5)「いま、ここ」

 そういえば、因幡の源左が「ふいっと分からせてもらった」のは、自分が肩に荷っていた重い草の束を、辛くなって牛の背に委ねたときでした。そのとき源左に「おまえの煩悩はわたしが荷おう」という声が聞こえて、「あゝ、このまま生きていていいんだ」とふっと全身が軽くなったように感じたに違いありません。
 しかし「おまえの煩悩はわたしが荷おう」という声が聞こえたからといって、そのとき源左の煩悩が消えるわけではありません。仏になるわけではありません、煩悩具足の凡夫のままです。ただ「煩悩を抱えたまま生きていていい」と思えるだけです。それがどうして救いなのかという疑問が出るかもしれません。
 龍樹のところで「歓喜地」の話がありました。「一毛をもて百分となし」というたとえ話ですが、親鸞の読みでは、一分の毛で分かちとった2,3滴しか苦しみは減らないということでした。それがどうして救いなのか、どうして歓喜地なのか。やはり救いは煩悩そのものが消えてこそではないのかと。
 ここから「そうだ、だから救いは今生では得られない、それはいのち終わった後、浄土へ往生してはじめて与えられるのだ」という二段階説が登場するのです。今生で浄土を信じ、来生に浄土へ往生する、と。しかし、この二段階説では、救いは「いま、ここ」でなければならないということ、この一番肝心なことがどこかスポイルされてしまいます。
 くどいようですが、もう一度「おまえの煩悩はわたしが荷おう」という声が聞こえたその現場に立ち返りましょう。ひとより少しでも多くと貪り、それを邪魔するものに怒りを向ける。そんな自分を持て余しているとき、「そのまま生きていていい」という不思議な声がするのでした。そのときの踊躍歓喜こそ「いま、ここ」の救いです。
 その重さを見誤らないようにしたい。


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