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「同じ」ではないが「ひとしい」 [『正信偈』を読む(その95)]

(6)「同じ」ではないが「ひとしい」

 不思議な声が聞こえたからといって煩悩は消えていませんが、でも、消えてしまった〈ごとく〉になります。苦しみを減らすという引き算ではなく、苦しみの大海に2,3滴の喜びがしたたるという足し算で考えるべきです。そうしますと、不思議なるかな、苦しみが消えてしまった〈ごとく〉になる。ほんとうに消えてしまわなくても、消えてしまった〈ごとく〉になれば、もうそれでいいではありませんか。
 ほんとうに煩悩が消えるのは来生のことかもしれません。でも、来生のことなんて誰も知りませんし(釈迦が死後のことについて語るのを拒否したことはよく知られています―「マールンクヤの問い」)、それにたとえ来生などいうものはないとしても、それはそれでいいではありませんか。「いま、ここ」でもうすでに煩悩は消えてしまった〈ごとく〉なのですから。
 「功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲」(正定聚)と「蓮華蔵世界に至ることを得れば、即ち真如法性の身を証せしむ」(往生)を二段階に捉えるべきではないと言ってきました。「大会衆の数に入ること」は「真如法性の身を証せしむ」と〈同じ〉ではありませんが〈ごとく〉です。親鸞は関東に宛てた手紙の中でしばしば信心の人は「仏とひとし」と言っていますが、同じ筆法で「大会衆の数に入ること」は「真如法性の身を証」することに「ひとしい」と言うことができます。
 「同じ」ではないが「ひとしい」。
 さてそうしますと、「煩悩の林に遊んで神通を現じ、生死の薗に入りて応化を示す」(還相)もまた「功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲」(往相)と二段階に捉えることなく、一体のものと考えるべきです。
 

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