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「こころ」の中? [『正信偈』を読む(その97)]

(8)「こころ」の中?

 「あした」に行くことはできませんが、だからといって「あした」がないわけではありません。「あした」がないとすれば大変です(もっとも、今夜の12時をもって時間が止まる可能性があることは誰にも否定できませんが)。むかし坂本九が「あしたがあるさ、あすがある」という歌をうたっていましたが、「あした」があることによって「きょう」生きることが支えられています。
 同様に、この世界の「そと」には出られませんが、だからといって「そと」がないと言うこともできません。ただ、愛知県の「そと」に長野県があるように、この世界の「そと」に何か特別な世界があるとイメージするのはもうやめにしましょう。その意味での「そと」はどこにもありはしません。でも、だからといって、どんな意味でも、この世界の「そと」なんかないと考える必要もありません。
 たとえば亡くなった人たちは、もうこの世界にいませんが、どんな意味でもいなくなったわけではないでしょう。生きているぼくらが「いる」のとは違うかたちですが、どこかに「いる」のは確かです。この世の「そと」ではないにしても、どこかにいます。しかし、どこに?
 「きのう」はぼくらの「思い出」の中にしかないように、「あした」もぼくらの「予定」の中にしかありません。思い出も予定もぼくらの「こころ」の中でしょうから、「きのう」も「あした」も「こころ」の中にあると言ってよさそうです。同じように、浄土(あの世)もぼくらの「こころ」の中にあると言うべきでしょうか。
 しかし「こころ」の中ということばで何か分かったような気になるのは危険この上ありません。


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