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「わたし」 [『正信偈』を読む(その106)]

(3)「わたし」

 「わたし」ということばは、他ならぬこの自分のことを言うのはもちろんですが、他のだれかれが自分のことを「わたし」と言うことを禁止しているわけではありません。逆に、誰でも自分のことを「わたし」と言うのを承認することの上に「わたし」ということばが成り立っています。
 デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言うとき、「われ」とはデカルトだけを指しているのではありません。誰にせよ、ものを思う以上、その人は存在すると主張しているのです。試しにこれを「デカルトは思う、ゆえにデカルトはある」としますと、デカルトが言おうとしていることが台無しになってしまいます。
 「わたし」は他ならぬこの自分であるとともに、みんな「わたし」であるという共通性が了解されています。
 ある本(中島義道『哲学の教科書』)にこうありました、「どんなに激しい記憶喪失に陥ろうが、強度の精神病になろうが、生命の危険のあるほど泥酔していようが、われわれはこの『私』という文法を使い間違えることはありません。自分のことを『アインシュタイン』と思いこんでいようが『キリスト』と信じていようが、自分を『あなた』とか『君たち』と呼ぶことはない。やはり『俺は誰なのだ』とか『私はアインシュタインなのです』とか言って『私』の文法が崩れることはないのです」、と。
 この「わたし」の文法の強靭さには舌をまきますが、それは突きつめますと、先ほど言いました「木偶の坊やロボットでは嫌だ」、「誰が何と言おうと、わたしがこうするのだ」という「意志」の強さに他なりません。「わたし」とは「意志」のようです。
 

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