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他力の信心とは [『正信偈』を読む(その107)]

(4)他力の信心とは

 「わたし」がないがしろにされたと感じるとき、無性に腹が立ちます。木偶の坊あつかいされたり、ロボットのように見なされたりするのは我慢できません。「ぼくはどうなるんだ」とは、「ぼくの意志はどうなるんだ」ということです。「わたし」がないがしろにされるとは、「わたしの意志」がないがしろにされることです。
 「すべて如来から回向される」というときこの心理が働き、「ぼくはどうなるんだ」と叫びたくなります。よくよく「わたし」が全身に行き渡っていると言わなければなりません。隅々まで「わたし」に満たされているのです。他力の入り込む余地などないように思えます。
 ここでよくある疑問に答えておかねばなりません。隅々まで「わたし」に満たされていると言うが、世の中ほとんど「わたしの意志」など関係なく動いているではないか、という疑問です。ある方から、わたしの心臓は他力で動いていますよ、と言われたことがあります。なるほど「わたしの意志」などちっぽけなもので、それが関わる範囲はたかが知れています。雨はぼくの意向を聞くことなく降りますし、地震はぼくの許しを得ることなく勝手に起こります。その意味ではみんな他力です。
 隅々まで「わたし」に満たされていて、他力の入り込む余地がないと言えるのは、自分が何かを「する」ときです。念仏をし、信心を「する」のは「わたし」であるはずなのに、「すべて如来から回向される」と言われますから、咽喉元に引っかかるのです。
 ここが他力を考えるときの胸突き八丁です。
 

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