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悪の自覚から他力が [『正信偈』を読む(その114)]

(4)悪の自覚から他力が

 正法の時代には生死即涅槃を自力で掴み取ることができるが、末法の世になると他力に委ねざるをえないというのはどうも釈然としません。生死即涅槃は「向こうから気づかせていただく」ほかないのだとしますと、それはいつでもどこでもそうであるはずです。正法の時代だから「こちらから知る」ことができるなどということはありえない。
 としますと、こう考えるしかありません。
 正法や像法の時代においても「向こうから気づかせていただいた」のですが、それを「こちらから知る」ことができたかのように思っていただけだと。むしろ末法の時代になって「向こうから気づかせていただく」しかないことがはっきりしたのです。釈尊の真意が末法の世になって明らかになったということです。
 それはなぜか。法の深信と機の深信が手がかりとなります。
 機の深信(「こんな自分が救われる道理がない」)がないところでは法の深信(「こんな自分のために本願がある」)は開けないことを明らかにしてくれたのは善導ですが、道綽はそれに先んじて、時代が悪くなることにより他力の真実が顕れてくることを示してくれたと言うことができます。
 時代が悪くなるというのは、ただ戦乱が引き続くことで大事な人たちの命が奪われたり、天変地異により飢饉になるということではありません。そうした状況で、人々の悪が否応なく露呈してくるということです。時代の悪とは、その中で生きる人間自身の悪に他なりません。平穏な状況では見なくても済んだ己の悪と対面せざるを得なくなるということです。そこに他力が顕れてくる。
 しかし、どうして己の悪の自覚からはじめて他力が顕われるのでしょう。


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