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信じるとは賭け [『正信偈』を読む(その120)]

(3)信じるとは賭け

 いま見えていること、聞こえていること、感じていることは信じるも信じないもありません。それは現実そのものです。
 デカルトは疑いうるものはすべて疑おうとして、いま目の前に見えている世界の存在まで疑いました。夢の中かもしれないというのです。この疑いは、ぼくらが見ているのは世界そのもの(ほんとうの世界)ではなく、それがぼくらに映し出された姿だとするところから生まれてきます。
 そこから、ぼくらに映し出された姿は世界のほんとうの姿とは違っているかもしれないと疑うのです。しかし、現に夢を見ていること自体は現実そのものではないでしょうか。このように、いま現に見えていることは疑うことはできませんから、それを信じるというのもナンセンスです。
 疑うとか信じるというこころの働きは、すでに過ぎ去ったことがら、さらにはまだ起こっていないことがらに向かいます。
 前にも言いましたが、歴史を教えていますと、ときに「先生はあたかも見てきたかのように話しますが、それがほんとうにあったことかどうかどうして分かるんですか」という問いを投げかけてくる生徒がいます。彼はすでに過ぎ去ったことがらに疑いの眼を向けているのです。未来が疑わしいのは言うまでもありません。「明日はまず晴れるでしょう」と言われても、ほんとうにそうなるかどうか分かったものではありません。
 このように過去や未来は疑わしいからこそ、信じるということが意味をもってくるのです。信じるとは決断であり賭けであるというのはそういうことです。どちらかは分からないが、いや、分からないからこちらに賭ける―これが普通の意味の信じるということです。


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