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聞信ということ [『正信偈』を読む(その121)]

(4)聞信ということ

 「信じる」というのは「知る」ことの親戚と思われがちですが、むしろ「意志する」ことの仲間で、もうひとつの意志である「疑う」ことといつも一緒です。疑うから信じるのであり、信じながらも疑うのです。ですから、何かを信じるといっても、「淳からず」つまりあやふやで、「一ならず」つまり迷いがあり、「相続せず」つまりふらふらしているのが普通だと言わなければなりません。
 ところが曇鸞や道綽は、そのようなおぼつかない信では往生できないと言うのです。これはもう不可能なことを要求しているとしか思えません。
 どうやら普通の信のことではなさそうです。親鸞は、信じるとは聞くことだとその秘密を明かしてくれます。もっと正確に言えば、聞こえてくること、これが信じるということです。としますと、これは過去でも未来でもありません、「いま、ここ」のことです。「いま、ここ」で本願が聞こえてくる、これが信じるということです。
 先ほどこう言いました、いま見えていること、聞こえていること、感じていることは信じるも信じないもなく、現実そのものだと。としますと、「いま、ここ」で聞こえてくる本願を信じるというのはどういうことでしょう。
 聞こえてくる本願に身もこころも「ほれぼれと」包み込まれているということです。ただこの声は、ある人には聞こえるが、ある人には聞こえません。聞こえる人は、その声に全身を包み込まれていますが、聞こえない人には、そんな声はどこにもありません。そこから、そんなのは幻聴だろうということになります。
 最近はもう見かけなくなりましたが、夜、車を運転していますと、道端に警察官が立っているのが見えます。「おっと」と思わずスピードを緩めますが、近づいてよく見ますとライトで警察官の姿が浮かび上がるように作られた看板だった、というような経験はよくあります。これは一種の幻視でしょう。


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