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主客未分 [『正信偈』を読む(その124)]

(7)主客未分

 「会う」と「遇う」の違いは、「聞く」と「聞こえる」の違いと同じです。第一に、「聞く」のは「こちらから」耳をそばだてますが、「聞こえる」のは「向こうから」音や声が聞こえてきます。第二に、「聞く」のは「そうしようと思って」聞きますが、「聞こえる」のは「思いがけず」「ふと」聞こえてきます。そして第三に、「聞く」は「これから」聞こうとしますが、「聞こえる」は気がついたら「もうすでに」聞こえています。
 これらの違いをひとことで言いますと、「会う」や「聞く」は「動作」あるいは「行為」ですが、「遇う」や「聞こえる」は「知覚」あるいは「気づき」だということです。「動作」や「行為」は、何かを<する>ことであるのに対して、「知覚」や「気づき」はある状態の中に<いる>ことです。
 「会う」とは、誰かを訪ねて行ってドアを叩くといった動作を<する>ことですが、「遇う」とは、誰かとばったりあって<いる>ことです。「聞く」とは、身体の向きを変え、気持ちを集中<する>ことであるのに対して、「聞こえる」とは、ある音や声の中に浸って<いる>ことです。
 さて、何かを<する>ときは、それをする「わたし」と、することがらをはっきり切り離すことができます。しかしある状態に<いる>ときは、その状態にいる「わたし」と、その状態そのものとは切り離すことはできません。西田哲学のことばをつかいますと、「主客未分」です。
 誰かと「会う」ときは、こちらにぼくがいて、あちらに誰かと会うことがありますが、誰かと「遇う」ときは、ぼくとその状況を引き剥がすことはできません。ある曲を「聞く」とき、ぼくとその曲を聞くこととは全く別ものですが、好きな曲が「聞こえている」ときは、ぼくをその曲に浸っていることから引き剥がすことはできません。


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