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自力と他力 [『正信偈』を読む(その125)]

(8)自力と他力

 ここで自力と他力という補助線を引きますと、自力とは、何かを<する>ときの必要条件だと言えます。どんなことを、どんなふうに<する>にせよ、それはあくまでも自力です。人の助けで何かを<する>にしても、人の助けを求めることは自分でしなければなりません。
 しばしば「他力本願ではダメ」と言われますが、それは他の誰かを頼りにしていてはダメということです。そして他の誰かをあてにすることは自力であって、決して他力ではありません。誰かにすべてを任せきるなら、他力だろうと言われるかもしれませんが、任せることは立派な自力です。
 では他力とは何だ、となりますが、それは何かを<する>ときではなく、ある状態に<いる>ときに感じるものです。
 他力は弥陀の本願の専売特許ではありません。何らかの状態に<いる>ときには他力のなかにいるのです。何かが「見えている」とき、何かが「聞こえている」とき、何かを「感じている」とき、他力の中にいます。いまぼくが悲しみに沈んでいるとしますと、ぼくは他力の中にいます。そしていまぼくが「弘誓に値いぬれば」、ぼくは本願の中にあって喜びに包まれているのです。
 本願は十劫のむかしに成就したといわれますと、何だかはるか遠い世界の話だと思ってしまいますが、とんでもありません。本願は「いま、ここ」で、ぼくの身の上に、あなたの身の上に、一人ひとりの身の上に成就するのです。そして、そのときが「安養界に至る」ときであり、「妙果を証する」ときです。遠い先の話ではありません、「いま、ここ」のことです。

            (第17章 完)

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