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念仏は方便? [『正信偈』を読む(その127)]

(2)念仏は方便?
 
 当時の中国の仏教界において、曇鸞・道綽流の念仏理解は決して主流ではありませんでした。道綽は『安楽集』で本願・第十八願をこう意訳しています、「この故に『大経』にのたまわく、“若し衆生ありて、たとい一生悪を造れども、命終(みょうじゅ)の時に臨みて、十念相続して、わが名字を称せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ”と」。これは『大経』の本願を『観経』の「下品下生」の段をもとにして解釈しているのですが、当時としては、こうした念仏理解をそのまま受け取ることは到底できないと考える人たちが多かったのです。どれほど悪を積み重ねてきても、命終わるときに南無阿弥陀仏を十声称えるだけで極楽浄土へ往生できる、などということはありえないとされていたのです。
 伝統的な仏教理解では、厳しい菩薩行を積み重ねてようやく初地(正定聚の位)に至ることができ、その人たちだけが浄土へ往生して成仏できるとされてきたのですから、臨終にわずか十声念仏するだけで誰でも往生できるなどと信じることはできなかった訳です。しかし浄土経典には紛れもなくそのように説かれています。ですからこれをどう解釈すればいいかという問題が残ります。そこで人々が依拠したのが『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』という無着(アサンガ、天親の兄さんです)の著した書物でした。
 その書物には、釈迦は衆生を導くためにさまざまな方便を用いているが、例えば怠け心を持つ者たちのために、仏の名を称えたり、浄土へ往生したいと願うだけでいいと述べている経典があると書いてあります。釈迦は方便としてそんなふうに説くことで怠け者を仏道に誘おうとされているのだと。人々はこの方便説を取り、浄土経典に「わずか十声でも南無阿弥陀仏と称えるだけで往生できる」と説いてあるのは、愚かな凡夫を導きいれるための便宜であって、実際はそんな簡単なものではないのだと主張していたのです。
 そうした雰囲気の中で、『観経』を根本的に読み直し、これまでの念仏理解をひっくり返したのが善導です。


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