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『観経』とは [『正信偈』を読む(その128)]

(3)『観経』とは

 改めて『観経』の内容を見ておきましょう。息子の阿闍世によって幽閉されるという悲劇の中にあった韋提希夫人は「われ、むかし、なんの罪ありてか、この悪子を生める」と嘆き、釈迦に「ただ、願わくば、世尊よ、わがために広く憂悩(うのう)なき処を説きたまえ。われ、まさに往生すべし」と請います。釈迦はこの願いに応えて、浄土のありさまと阿弥陀仏や観音・勢至を観るための方法を説きます。それが西に沈む夕日を観る「日想観」にはじまり、「水想観」、「地想観」と続いて、「雑想観」まで十三あります。
 ところがそこで突然、「上品上生(じょうぼんじょうしょう)とは、もし、衆生ありて、かの国に生まれんと願う者、三種の心を発(おこ)さば、すなわち往生す」と転調するのです。それまでは浄土のありさまと阿弥陀仏や菩薩たちをどのように観るかについて述べていたのに、今度は一転して、往生する人たちの品性・能力に応じてどのような修行をすれば、どんなふうに往生できるのかを説き始めます。それが上品上生から下品下生(げぼんげしょう)まで九種類の人々について続くのです。上品の者たち三種類をまとめて「上輩生想」と名づけて、それを第十四観とし、以下、「中輩生想」が第十五観、「下輩生想」が第十六観とされて、これまでとの連続性が保たれます。
 この構成をどう理解するかが大きな問題となるのですが、善導は第十三観までを「定善」、すなわち「禅定に入って行う善」、そしてそれ以後の九品についての記述を「散善」、すなわち「心が散り乱れたまま行う善」と区別しました。そして、これまでの仏教では禅定に入って浄土や仏を観想することが重視されていたのに対して、善導はそうした定善はおろか、世間的な散善すら修めることができない下品下生のものも、わずか十声念仏するだけで往生できるという教えこそ『観経』の本質であると解釈したのです。
 「善導、独り仏の正意を明かせり」と親鸞が言うのは、このことです。


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