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光明と名号の因縁 [『正信偈』を読む(その130)]

(5)光明と名号の因縁

 浄土への往生を求めて、そのために何をすればいいかと考える。一方は、仏や浄土の相を「観る」のが本筋だが、下品下生のものはそれがかなわないから仏の名号を「称える」ことで往生できるとし、他方は、「観る」ことができるのはごく一部の人に限定されるから、弥陀の一切衆生を救いたいという本願からして「称える」ことが本筋だとするのです。いずれにしても往生のために何を<する>かというスタンスでものごとを考えています。そして「観る」と「称える」のどちらが主でどちらが従かと争っているだけです。
 前章でこう言いました、自力とは何かを<する>ときの必要条件で、どんなことをどんなふうに<する>にせよ、それはあくまでも自力だと。したがって『観無量寿経』の読みを根本からひっくり返すためには、<する>立場、つまり自力のスタンスを変えなければなりません。「称える」ということを<する>立場ではなく、他力のスタンスで捉えなければならないのです。しかしどのようにして?
 それを考える手がかりが「光明と名号の因縁」です。
 善導は『往生礼讃』において、次のような問答をしています。諸仏はみな同じ悟りをひらいておられるのに、どうしてただ西に向かって阿弥陀仏だけを礼拝し念仏すべきなのかと問い、それに対してこう答えるのです、「諸仏の諸証は平等にしてこれひとつなれども、もし願行をもてきたしおさむるに因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊もと深重の誓願をおこして、光明・名号をもて十方を摂化(せっけ、摂取と同じ)したまふ」と。確かに諸仏の悟りはひとつだけれども、因位の願と行を見てみると、そこにはおのずと違いがあり、阿弥陀仏は四十八の誓願をおこされ、光明と名号をもって一切の衆生を救おうとされたのだ、と言うのです。


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