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「帰っておいで」 [『正信偈』を読む(その131)]

(6)「帰っておいで」

 親鸞は『教行信証』行巻で次のように述べています、「まことにしんぬ、徳号の慈父ましまさずば、能生(のうしょう)の因かけなん。光明の悲母ましまさずば、所生(しょしょう)の縁そむきなん」と。善導が「光明・名号をもて十方を摂化したまふ」と説いているのを受けて、名号は慈父であり往生の因であるとし、光明は悲母であり往生の縁とするのです。
 光明と名号は、往生のための因と縁であり、どちらも弥陀から賜ったものだということ、ここに問題を解く鍵があります。
 弥陀から光明を賜るというのは分かりやすいと思います。真っ暗だったこころに突然光が差し込んで、一気に明るくなったという経験は誰しも多かれ少なかれあるでしょう。弥陀の光明もそのようなものかと受け取りやすいと思います。問題は名号を賜るということです。
 ぼくらの中に「南無阿弥陀仏」はぼくらが称えるものという思いが抜きがたくしみこんでいますから、それを弥陀から賜ると言われて戸惑うのです。「南無阿弥陀仏」のありようは「なむあみだぶつ」という声でしょう。もちろん文字としても存在するでしょうが、その本来のあり方としては声です。それが与えられるというのはどういうことか。
 それは弥陀の声が聞こえてくることだと明らかにしてくれたのが親鸞です。
 「南無阿弥陀仏」とはぼくらの声ではなく、弥陀の声なのです。弥陀の「招喚の勅命」なのです。平たく言えば「帰っておいで」の声、ぼく流にいいますと、「そのまま生きていていい」の声です。『歎異抄』第1章に「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき」とありますが、それはどんなときかと言いますと、この不思議な声が聞こえたときです。「なむあみだぶつ」の声が聞こえて、「ああ、有り難い」と喜びがあふれ、「念仏まうさんとおもひたつ」のです。
 「帰っておいで」と聞こえて、思わず「はい、ただいま」と応える、これが念仏を称えるということです。


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