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『正信偈』を読む(その135) ブログトップ

原因とは [『正信偈』を読む(その135)]

(3)原因とは

 原因ということばの意味を明らかにするために、福島の原発事故を取り上げましょう。どうして福島第一原発はあれほどの深刻な事故になったのかを巡ってどれだけ議論がなされてきたことでしょう。「想定を超えた津波により、炉心を冷却するのに必要な電源がすべて失われてしまったため、炉心溶融という最悪の事態を招いてしまった」、これがまあ差しあたっての答えでしょうか。でも、この答えで、全財産をそのままにして避難せざるを得なかった人たちは納得するでしょうか。
 するはずがありません。
 これまで原発は安全だと言われ続けてきた、だから大地震が起こっても原発のことなど何の心配もしていなかった、意識すらしなかった、ところが…、これが被災者たちの思いです。そうだとしますと、事故に至った因果関係をどれほど詳しく説明されても、なるほど左様ですかとなるはずがありません。彼らが聞きたいのは「どうしてあなた方(電力会社、政府、学者たち)は原発は安全だと言い続けてきたのか」ということです。安全ではないにもかかわらず、安全だと言い続けてきたのはなぜなのか。
 ここから原因の正体がおぼろげながら浮かび上がってきます。原因を追究するというのは、責任を追及することと不可分のようです。
 「あなた方がこれまで、どんなことがあっても炉心溶融に至らないように安全措置が取られていますと言ってきたのは嘘であったことを認めなさい」と言っているのです。それに対して、「いや、ほんとうに考えうる限りの安全措置は取ってきたつもりで、そこに嘘はありません」と弁解しても所詮虚しい。現に事故が起こってしまったのですから。どんな理由を持ち出しても、それは言い訳にしかならず、結局、事故の原因は安全軽視の姿勢にあったと言わざるをえないのです。絶対に事故を起こすまいという気持ちがなかったから、事故が起きてしまったのだと。


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