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鐘の音が聞こえるとき [『正信偈』を読む(その138)]

(6)鐘の音が聞こえるとき

 光明・名号と信心は別ものではないと言いましたが、どうもことばそのものの働きとして互いを切り離してしまうところがあるようです。親鸞はこう言っていました、「本願の大智海に開入すれば、行者まさしく金剛心を受けしめ(本願海に入り、本願の声を聞くことができましたら、金剛のように堅い信心を授かります)」と。これを普通に読みますと、本願の声が聞こえてくることと、それをしっかり受け止めることが切り離されているかのように思ってしまいます。
 もっと日常的な言い回しでも、例えば、「旅先の宿でくつろいでいたら、近くのお寺の鐘の音が聞こえてきて、こころに沁みた」などと言います。鐘の音が向こうからやってきて、それがこころに沁み込んでくるということで、向こうに鐘の音があり、こちらにそれを受け止めるこころがある。しかし、鐘の音が聞こえているとき、そんなふうに鐘の音とこころとが別々になっているでしょうか。鐘の音が聞こえていることそのものがそのときのこころのあり方であって、それ以外のどこにもこころがあるわけではありません。
 科学の知見が鐘の音とこころの分離に力を貸しているようです。音というのは空気の波動であって、それが耳の鼓膜を震わせ、その情報が神経を経由して大脳に伝わる。こうして、一方に空気の波動、他方に大脳のはたらきという構図が出来上がり、鐘の音と、それを聞くこころの分離に強力な根拠を与えることになります。しかし何度も言いますように、「鐘の音が聞こえる」というひとつの事態があるだけで、それを鐘の音とこころに引き剥がすことはできません。
 鐘の音とこころが分離されてしまいますと、そこに時間の前後関係が生まれます。まず鐘の音があり、それがこころの中に沁みこむというように。科学的な言い方ではそれが一層はっきりします。まず空気の波動があり、それが耳の鼓膜に伝わり、さらに大脳にまで達するというように。でも、実際に起こっているのは「鐘の音が聞こえる」というひとつの事態で、そこに時間の前後関係などありません。ところが、切り離せないことが切り離されますと、それが時間順に並べられ、しかも因果関係があるように語られるのです。


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