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信じることがそのまま救われること [『正信偈』を読む(その139)]

(7)信じることがそのまま救われること

 「慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲(喜びがこころに湧き上がった後、韋提希夫人と同じく、喜忍・悟忍・信忍の三忍を得ることができます)」についても同じことが言えます。「慶喜の一念」とは信の喜びのことで、「三忍を獲」とは正定聚になるということですが、そのふたつが時間順に並べられるのです。信心を得て、しかる後に正定聚となるというように。そしてここでも両者に因果関係があるかのようです。かくして光明・名号と信心と正定聚とが因果関係で一直線でつながれているようなイメージが生まれます。
 しかし、光明・名号と信心は一体で引き剥がせないように、信心と正定聚もまた引き剥がすことはできません。
 キリスト教では「信じれば救われる」と言います。これは一見「信じる」ことと「救われる」ことは別もので、前者が後者の原因であるかのようです。浄土の教えでは「念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」(『歎異抄』1章)と言いますが、これも「念仏する」ことが「弥陀にたすけられまひらす」ことの原因であると見られかねません。このように、ぼくらはとかくものごとを時間的に分離し、そこに因果関係を見ようとする習性がありますが、これは「わたし」が「力への意志」であることと深くつながっているに違いありません。
 ともあれ、「信じる」ことと「救われる」ことは別ものではなく、「信じる」ことが取りも直さず「救われる」ことです。誰かの何気ないひと言が「なむあみだぶつ」と聞こえたことが「信じる」ことでしたが、それがそのまま「あゝ、救われた」と喜ぶことに他なりません。あるいは喜びの中で「ただ念仏する」ことが、そのまま「弥陀にたすけられまひらす」ことに他なりません。
 「いいことをすれば幸せになる」というのは、「いいことをする」ことが「幸せになる」ことの原因ではなく、「いいことをする」ことが取りも直さず「幸せになる」ことなのです。

            (第19章 完)

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