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『正信偈』を読む(その141) ブログトップ

『往生要集』 [『正信偈』を読む(その141)]

(2)『往生要集』

 源信の著した『往生要集』という書物が日本浄土教にはっきりした形を与えたと言えます。そのことを親鸞は最初の二句で述べています、「源信、広く一代の教を開きて、偏に安養に帰して、一切を勧む」と。源信は釈迦一代の教えを広く学び、仏教の本質が浄土の教えにあることをすべての人に伝え勧めているのだというのです。
 源信自身のことばを見てみましょう。『往生要集』冒頭の有名な文章です。「それ往生極楽の教行は、濁世末代(じょくせまつだい)の目足(もくそく)なり。道俗貴賎、誰か帰せざる者あらん」。仏教広しといえども詰まるところ念仏往生に尽きる。顕教も密教も、その説くところは難しく、その修行も耐えがたい。そこで経論の中から念仏往生についての大事な箇所を抜き出し、分かり易く行い易くしたいと言っています。
 その趣旨は明快で、実際この書物によって、地獄とは何か、極楽とは何か、往生するとはどういうことか、そのためにはどうしたらいいのかなど、今まで曖昧模糊としていたことがらにはっきりとしたイメージが与えられたと言えます。源信が日本浄土教に明確な形を与えたというのはそういう意味です。ぼくらが地獄や極楽、あるいは往生と聞いたときに思い浮かべるイメージは、源信の『往生要集』によって形づくられたと言っても過言ではありません。
 第一章は「厭離穢土(おんりえど)」で、穢土の諸相が描き出されます。穢土とは、われらが輪廻している六道、すなわち地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天のすべてで、それらの世界の醜さ、穢れ、苦しさをこれでもかと描くのです。もちろん圧巻は地獄で、ここに描かれたイメージを元にさまざまな地獄絵、地獄草子が作られ日本人の地獄像が形づくられていきました。


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