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かの摂取のなかにあれども [『正信偈』を読む(その147)]

             第21章 源信-大悲ものうきことなく

(1)摂取のなかにあれども
             21
 極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)  極重の悪人はただ仏を称すべし。
 我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)  われまたかの摂取のなかにあれども、
 煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)  煩悩まなこをさえてみたてまつらずといえども、
 大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)  大悲ものうきことなく、
つねにわれを照らしたもうと。

 (現代語訳) 源信和尚はこう言います、「極重の悪人であるわれらは、ただ弥陀の名号を称えさせていただくしかありません。わたしもまた弥陀の光明に摂取されているにもかかわらず、煩悩が目を覆ってその光明を見ることができませんが、それでも弥陀の大悲は絶えることなくいつもわたしを照らし続けてくださるのです」と。

 親鸞は『往生要集』の「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえてみることあたわずといえども、大悲ものうきことなく、つねにわが身を照らしたもう」(「正信偈」では七文字にそろえるため少し変えられています)の一文がよほど気に入ったのでしょう、いろいろなところで引用しています。親鸞ならずとも、この文にはぼくらの心を揺さぶる力があると言えます。真実を射抜いているからでしょう。
 しかし、この文は複雑で、また不思議な構造をしています。


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