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見えないのにあると言えるのは? [『正信偈』を読む(その149)]

(3)見えないのにあると言えるのは?

 なるほど「見えぬものでもある」のです。いや、ぼくらの眼に見えているものなど、たかが知れているとも言えます。ほとんどのものは「見えぬけれどもある」のです。空気中のウィルスは見えませんが、それがぼくらにインフルエンザをもたらしますし、親の愛は眼に見えませんが、それが子を育んでいくのです。しかし「見えぬけれどもある」と言えるのはどうしてでしょう。
 言うまでもありません、ぼくらがものを知覚しているのは眼だけではないからです。
 仏教では「眼耳鼻舌身意」と言います。この六根を動員してものを知覚していますから、光が眼で見えなくても、それを肌で感じることができるかもしれません。ですからその意味では「光を見ることはできないが、光に照らされている」と言うのは不思議でも何でもありません。
 しかしここで「光を見ることはできない」と言っているのは、眼で見ることだけではなく、六根のすべてで知覚できないということに違いありません。どんな意味でも「見えない」と言っているのです。としますと、先ほどの「見えないのにあると言えるのはどうしてか」という疑問がより深刻な相貌を帯びてきます。
 どんな意味でも見えないとすれば、見えないと言うことすらできません。何らかの意味で「ある」と知っているから、それが「見えない」と言えるのであって、どんな方法でも知覚できないものについて、「見える」と言えないのはもちろんのこと、「見えない」とも言うことができません。「見えない」と言うことは、何らかの意味で「ある」ことを知っていると考えざるをえません。


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