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『正信偈』を読む(その152) ブログトップ

目隠し構造 [『正信偈』を読む(その152)]

(6)目隠し構造

 著者は、この先生には目隠し構造があって、自分の中にあるものが見えていないのだと言います。
 「それは、ゼミで“女子学生も対等に発言していいのだよ”と彼が言ったときの、あるいは女子学生から発言が出たときの、先生自身の表情や身振りなどの“身体言語”が何を語っていたかである。…“不快だ”“うっとうしいな”というメッセージが、彼の全身から発せられている。女子学生たちは、発言をはじめたときに、いきなりそういう事態に直面したのである。だから、だんだんしんどくなって、途中から発言するのをやめてしまった。口ではあんなこと言ったって、結局、あたしたちにはしゃべってほしくないんじゃん。そういうふうに悟って、あきらめてしまう。」
 これを他人事だと思える方は幸いなるかな。ぼくはと言いますと、胸にズキンときました。ときどき妻に言われるのです、「あなたは口では家庭は平等な共同体だなどと立派なことを言いながら、実際の行動では古い封建的な意識が顔をだすじゃないの」と。こんなふうに指摘されてはじめて、たとえば「オレは外で一生懸命働いているんだから…」という思いがぼくの中に根付いていることに気づかされるのです。普段は目隠しされて、こんな意識があることを見なくてもいいようになっているということです。
 何かを見るためには光が必要ですが、自分の中の見たくないものには光が当たらないようにブロックされているのです。ブロックしているのはもちろん「わたし」です。煩悩とは「わたし」のことです。「わたし」が煩悩をもっているのではありません、「わたし」が煩悩です。かくして、なぜ「こちらから」見ようとしても見ることができないかが明らかになります。
 「わたし」が見えないようにしているのです。


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