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念仏は如来の大行 [『正信偈』を読む(その160)]

(7)念仏は如来の大行

 しかし、ただ「自らの選択か、弥陀の選択か」の違いにとどまりますと、まだ底の底までは行き着いたとは言えません。自分が選ぶか弥陀が選ぶかはあっても、専ら念仏を修めることに違いはないからです。
 専修念仏とは「専ら念仏を修める」ということですから、当然のこととして、自分が念仏修行をすると受け止められます。としますと、自ら選んで念仏するか、あるいは弥陀が選んでくれた念仏をするかは、どちらでもいいじゃないかとなります。どちらにしても、ただひたすら念仏をすることが往生にとって肝心なのですから。
 したがって、もし源信と法然の間に本質的な違いを認めるとすれば、念仏を「選ぶ」ことだけでなく、それを「修める」のが自分なのか、それとも如来なのかというところにまで射程を延ばさなければなりません。
 『選択集』ではそこまで及んでいません。弥陀の本願が念仏を選んでくださったというところまでです。しかし、弥陀が念仏を選んでくださったということは、念仏そのものを与えてくださったというところまでいかないと一貫しません。ほんとうに「一切衆生をして平等に往生せしめむ」ためには、ただ念仏を選ぶだけでなく、念仏そのものを一切衆生に分け隔てなく賜ることが必要です。
 しかし念仏そのものを賜るというのはどういうことか、そこに光を当てたのが『教行信証』「行巻」でしょう。念仏はわれらの行ではなく、如来の大行であることを明らかにしたのです。親鸞は「行巻」において第十七願に着目しています。法然も含めて、これまで第十七願の意味に注目した人はいないのではないでしょうか。
 「たとひわれ仏をえたらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ、ほめたたえる)してわが名を称せずといはば、正覚をとらじ」。
 われらが称名するのではなく、諸仏が弥陀をたたえて称名するのが念仏なのです。われらには諸仏の称名の声が聞こえ、それが胸に沁みる。そして諸仏の称名にこだまするようにわれらも称名するのです。第十八願成就文に「聞其名号、信心歓喜、乃至一念」とあるのは、そういう意味だと親鸞は明らかにしてくれました。

            (第22章 完)

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