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唯はひとりといふ [『唯信鈔文意』を読む(その6)]

(6)唯はひとりといふ
 
 もう一度『唯信鈔文意』冒頭の一文を読んでいただきたいのですが(1)、親鸞は『唯信鈔』というタイトルの「唯」の意味について、まず「このことひとつ」ということを上げ、次いで「ひとりといふこころ」を上げます。「唯信」ということばから、「信ということひとつだけ」ということにとどまらず、「ただひとり信じる」という意味を取り出してくるところに親鸞らしい眼光を感じます。
 とは言うものの「また唯はひとりといふこころなり」について、それ以上の解説をしてくれるわけではないのですが、そう言及せざるをえなかった親鸞の気持ちに寄りそいたいと思います。「ひとり」というのは心細いものです。みんなが信じるから、自分も安心して信じるというのが普通でしょう。ところが親鸞は「ひとり」信じるところに意味を見いだしてくるのです。
 すぐ頭に浮かぶのは『歎異抄』後序の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という有名なことばです。弥陀の本願が「みんな」に向けられているのは言うまでもありませんが、それが親鸞ひとりに向けられているところに信の本質があるということです。
 しかしそれはどういうことでしょう。「みんなのため」と「親鸞一人がため」とはどういう関係にあるのか。前に「永遠といま」について考えたことがあります。一見、いまの問題と関係がないように思えますが、実は深く結びついていますので、改めて思いを致してみたい。
 永遠といまは対立概念です。あるもの(例えば美しさ)が永遠に変らないのと、いまのこの一瞬に輝くのとは対極にあります。そして、この世に存在するもので、永遠に変らないものなど何一つありません。すべて遅かれ早かれ変化していく。これが仏教の無常ということであるのは言うまでもありません。


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