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「ひとり」なのに「みんな」 [『唯信鈔文意』を読む(その9)]

(9)「ひとり」なのに「みんな」

 こちらから愛をゲットしようとするとき、それが「みんなのため」にあるのと「自分ひとりのため」にあるのとは両立しません。しかし、それが向こうから与えられていることにふと気づくときはどうでしょう。それが「みんなのため」にあるとしても、ただ「自分ひとりのため」にあるように感じるのではないでしょうか。
 としますと、「みんなのため」と「自分ひとりのため」が両立するのは、形のないものであるからではなく、それをこちらから手に入れようとしているのではないから、ということになりそうです。気がついたら向こうから与えられていたというとき、「自分ひとりのため」が「みんなのため」とぶつからないのです。
 ここから理解できるのは、向こうから思いがけず与えられていることに気づくときは、もう周りに誰もいないということです。いや、どれほど大勢の人がいてもいいのですが、誰もいないのと同じだということ、世界には自分しかいないという感覚になるということです。でも、不思議なことにちっとも寂しくない。なぜかと言いますと、そのとき自分は間違いなく「ひとり」なのですが、同時に「みんな」だからです。「ひとり」と「みんな」が一体になっている。「ひとり」なのに「みんな」。
 「ひとり」だけ信じるというのは心細いと言いました。「みんな」が信じるから自分も安心して信じられると。
 少し前に読んだ本にこうありました、がんは検診を受けて早期発見することが何より大事で、早い段階で切り取ってしまえば完治できるというのが通説になっているが、そのようなケースの大半は「がんもどき」で、そのまま放っておいても何ともない、そして発見されたのがほんもののがんだったら、もう手術しても何ともならない。だからがん検診に意味はないというのです。驚きました。


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