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キルケゴール [『唯信鈔文意』を読む(その11)]

(11)キルケゴール

 ぼくは若い頃キルケゴールというデンマークの孤独な思想家にいたく惹かれたことがあります。キリスト教という宗教の深さを教わったのもこのキルケゴールからです。
 キルケゴールという人はヘーゲル哲学全盛の時代に、その哲学に根本的な批判を投げつけた人です。ヘーゲルにあらざれば哲学にあらずと思われていたときに、キルケゴールはこう言いました、「なるほどヘーゲルは壮大な哲学の宮殿を建てたかもしれないが、彼自身はその前のみすぼらしい犬小屋に住んでいる」と。
 その意味するところは明らかでしょう、ヘーゲルは自分の思想を生きていないということです。キルケゴールの願いは「自分がそのために生き、そのために死ねるような真理を見いだすこと」にあったのです。彼はそのような真理を主体的真理と名づけ、客観的真理から区別します。
 彼のいう主体的真理を「自分ひとり」が信じる真理、客観的真理を「みんな」が信じる真理と置き換えることができるでしょう。キルケゴールにとって、「みんな」が信じるかどうかなんて二の次、三の次で、「自分ひとり」が「そのために生き、そのために死ぬ」ことができるかどうかが問題だったのです。彼にとってイエス=キリストを信じるとはそのようなことだったのです。
 親鸞が法然から本願をリレーされたとき、この本願は「親鸞一人がため」と思えた。それはキルケゴール流に言えば、「自分がそのために生き、そのために死ぬ」ことができると思えたということです。他の人はいざ知らず、この「自分ひとり」が本願に救われた、それ以外に何が必要か、ということです。
 『歎異抄』のなかで親鸞はこう言っています、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」と。


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