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倚りかからず [『唯信鈔文意』を読む(その12)]

(12)倚りかからず

 「ただ信じる(唯信)」とは「本願他力をたのみて自力をはなれたる」ことだと親鸞は言います。ここにすべての結論があるようなことばが、書物の冒頭に置かれます。親鸞にとって、このことを繰り返し、巻き返し述べていくしかないということでしょうが、ぼくもまた、このことを繰り返し、巻き返し味わっていきたいと思います、1ミリずつでも味わいが深まるのを期待しながら。
 他力をたのんで、自力をはなれる。
 自力をたのんで、他力をはなれるというのでしたらよく分かります。小さい頃から親や教師たちにこう言われて育ってきました。人頼みしていてはダメ、自分の頭と身体でやろうとしなくちゃ、と。
 好きな詩人、茨木のり子に「倚りかからず」という詩があります。
   
   もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない
   もはや/できあいの宗教には倚りかかりたくない
   もはや/できあいの学問には倚りかかりたくない
   もはや/いかなる権威にも倚りかかりたくはない
   ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい
   じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある

   倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ

 そうだよな、と思います。できあいの思想、宗教、学問、権威から自由に、自分の耳目と二歩足で生きていきたいな、と思います。自分では誰かに頼っているなんて気はちっともなくても、思わず知らすに周りに倚りかかってしまっていることはしばしばです。そのことを自覚していないから始末がわるい。
 ある政党の人はものの言い方(言っている内容もそうですが、気になるのは言い方です)に特徴があるなと思ったら、党首の言い回しそっくりだったということがあります。その党首も先代の党首と瓜二つとなりますと、もう気味が悪くなってきます。


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