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他力をたのみて自力をはなれたる [『唯信鈔文意』を読む(その13)]

(13)他力をたのみて自力をはなれたる

 そういえば、語尾上げの流行も、今やもう「猫も杓子も」になってしまってお手上げという感じですが、「じぶんの耳目、じぶんの二歩足のみで立つ」ことの難しさを教えてくれます。
 自力をたのみ、他力をはなれて生きたい。
 ところが、あるときふと、他力をたのみ、自力をはなれている自分に気づくことがあります。これは、先ほどの、知らず知らずのうちに他に倚りかかり、自分を見失っていることとは違います。どちらも、そうしようと思ってではないということでは似ていますが、まるきり別のことです。
 たとえば、自分自身が考えたと思っていることが、実は誰かの受け売りであることはままあることです。誰かがどこかで述べていることを、あたかも自分の頭で考えたことのように思いこんでいる。あるときそれにふと気づいて、自立しているように思っていながら、実は他に深く依存していることに恥ずかしくなります。
 それと親鸞の言う「他力をたのみて自力をはなれたる」とは違います。どう違うか。
 「みずから他をたのんでいる」か、「他からたのましめられている」か、この違いです。知らず知らずに他に倚りかかるのは、無意識ではあっても、「みずから他をたのんでいます」、それに自分では気がついていないだけ。しかし親鸞の「本願他力」は、「他からたのましめられている」ということです。
 舌を噛みそうな言い回しですが、使役の「しむ」を使っています。親鸞もよく使役法を使いますが、本願他力を言おうとしますと、そう言わざるをえないのです。こちらからたのむのではなく、向こうからたのましめられる。
 あくまでも自分でたのむのですが、でも、こちらからたのもうと思ってたのんでいるのではない、やはりたのましめられているのです。


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