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願われている [『唯信鈔文意』を読む(その14)]

(14)願われている

 もっと普通の言い回しでは、「みずから願っている」か「向こうから願われている」かの違いです。
 親鸞の言う他力は「本願他力」です。もっと約めて「本願力」。よく「他力本願」と言います(だいたい否定的に言われます)が、やはり厳密には「本願他力」でしょう。「本願という他力」です。他力とは「願いの力」なのです。ぼくらから言いますと、「願われている」ということ。
 ぼくらは、自分ではそんなこと露思わず、でも実際には何かを願っていることがあります(密かに願っているのではありません。それは他の人に気づかれないように願うことですが、そうではなく、自分も気づかないまま願っているということです)。「本願他力」はそれとは異なり、自分で願うのではなく、願われているということです。これも気づかないことが多いのですが、あるときふと気づく、「ああ、願われているのだ」と。
 これが「他力をたのみ、自力をはなれる」の意味です。「他力をたのみ」が「みずから他をたのむ」ではなく「他からたのましめられている」ことであるように、「自力をはなれる」というのも「みすから自力をはなれる」のではなく「はなれしめられる」のです。本願力にのっておのずから自力からはなれている自分にふと気づく。
 ぼくにはお釈迦様の手のひらの上の孫悟空のイメージが浮かびます。お釈迦様から「わたしの手のひらから飛び出せるか」と言われた孫悟空、「なにを」と、ひとっ飛びで世界の果てまで行ってきたつもりなのに、何とすべてがお釈迦様の手のひらの上でした。これに気づくことが「他力をたのみ、自力をはなれる」ことです。
 ぼくらはこころから「自力をたのみ、他力をはなれて」生きたいと願っています。でも、それができるのも「他力をたのみ、自力をはなれて」いるからのことです。すべてはお釈迦さまの手のひらの上なのです。

             (第1回 完)

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