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受動しかない [『唯信鈔文意』を読む(その19)]

(5)受動しかない

 「救う」は目的語をとる他動詞ですから、「救う」という能動態と「救われる」という受動態があります。ですから、「救う」があれば「救われる」があり、その逆に、「救われる」があるなら「救う」もある、ように見えます。
 「救う」には幅広い意味がありますが、ここでは宗教的な救い、いまの流れでは「涅槃に至る」ことに限定してつかいます。「涅槃に至る」とは、ひらたく言えば「安心(あんじん)を得る」こと、これさえあればどんな不幸に見舞われても泰然として生きていけるが、逆に、これがなければどんな幸せが押し寄せようともこころは鬱々と楽しまない、そのようなことです。良寛さんの「病むときは病むがよろしくさふらふ、死ぬときは死ぬがよろしくさふらふ」の境地です。
 さて、この意味の「救う」には受動態だけしかなく能動態はないのではないか、これがいまの問題です。「救われる」だけで、「救う」はないのではないか。「どうしてそんなことが言えるのか。誰かが救われるのなら、その人を救う人がいるはずじゃないか」という声が聞こえてきます。
 もっともです。順序だてて考えていきましょう。まず、ある人が誰かを「救う」ことができるとするなら、その人は自分を救えるはずです。これはいいでしょうか。―いいように思えます。自分を救えなくて他の人を救えるはずはありません。としますと、問題はこうです、人は自分を「救う」ことができるか。
 繰り返しますが、ここで「救う」というのは「安心を与える」ということです。そして安心とは、生老病死のどんな苦しみにも泰然としていられるということに他なりません。で、もういちど問います、人は自分に「安心を与える」ことができるでしょうか。


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