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「南無阿弥陀仏」に救われる [『唯信鈔文意』を読む(その22)]

(8)「南無阿弥陀仏」に救われる

 誰も「救う」ことはないのです。どういうことか、具体的な場合で考えてみましょう。親鸞は二十九歳のとき法然と出会い「救われた」。親鸞はそのときのことを『教行信証』の末尾において感動的に語っています。親鸞とすれば法然に「救われた」のです。では、法然は親鸞を「救った」のでしょうか。
 いな。断じていな。法然自身がそれを厳しく退けるでしょう。「わたしが親鸞を救ったなんて滅相もない。親鸞は“南無阿弥陀仏”に救われたのです」と言うに決まっています。では法然はと言いますと、彼はあるとき経堂の中で善導の『観無量寿経疏』に出会い「救われた」。法然とすれば善導に「救われた」のです。しかし善導が法然を「救った」わけではありません。またもや「南無阿弥陀仏」が法然を救ったのです。
 法然が親鸞を救ったのではなく、善導が法然を救ったのでもない。「南無阿弥陀仏」が彼らを救った。
 阿弥陀仏が彼らを救ったのではありません、「南無阿弥陀仏」が救ったのです。これはどういうことか。「南無阿弥陀仏」は声です。あるときふとこの声に遇う、それが「救われる」ということです。「安心を与えられる」ということです。この声は「向こうから」聞こえてくるのです。
 親鸞は法然からこの声を聞かせてもらったのですが、しかし法然自身の声ではありません。法然の身体を通って聞こえてきたのは間違いないでしょうが、法然から発せられた声ではない。法然もこの声を善導から聞かせてもらったのです。でも善導自身の声でもありません。善導もまた道綽から聞かせてもらった。こうしてこの声はどんどん遡っていくでしょう。


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