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帰納法 [『唯信鈔文意』を読む(その26)]

(12)帰納法

 このように、原因にせよ、実体にせよ、それらは世界の中にあるのではなく、ぼくらが世界にそのような図式を当てはめているにすぎません。そしてどうしてそのような図式を当てはめるかと言いますと、そうすることでぼくらは世界をさまざまに利用することできるからです。
 ここで疑問が生じるかもしれません。ぼくらが世界に原因や実体の図式を当てはめると言うが、そんなことができるのは、世界そのものがそのような構造になっているからじゃないか。そうでなければ、当てはめようにもうまくいかないはずだ、と。これはなかなか説得力がありそうです。
 しかし、もしそうだとしますと、ぼくらは原因や実体の図式を世界そのものから学んだということになります。経験を積み重ねていく中で、どうもあらゆる現象には原因がありそうだ、あらゆる働きには実体がありそうだと見当をつけることができたと。
 この問題を根本から考えたのがイギリスのヒュームという哲学者です。彼は、われらの知識はすべて経験から得られるという経験論の立場に立ちます。そして経験から得るということは帰納法によるということです。
 「人間は死ぬ。ヒュームは人間である。ゆえにヒュームは死ぬ」という推論を演繹法と言います。この推論は抗いようがなく正しいですが、ただこの推論からは新しい知識は何も得られません。「ヒュームは死ぬ」という結論は、「人間は死ぬ」と「ヒュームは人間である」という前提の中にすでに含まれており、演繹というのはそれを引っ張り出したにすぎません。
 それに対して帰納法は、これまで知っていることから新しい知識を見つけ出す方法です。「ロックは死んだ。ヒュームは死んだ。バークリは死んだ。…ゆえに人間は死ぬ」。これが帰納法です。


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