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眼鏡が外れる [『唯信鈔文意』を読む(その28)]

(14)眼鏡が外れる

 このカント的発想に立ちますと、「どんな働きにも、それをしている実体がある」も同じで、ぼくらはこれを世界から得てきたのではなく、逆に、この眼鏡をかけて世界を見ているということになります。だから、この眼鏡をもたない虫は世界をまったく別ように見ているはずです。
 ひかりの話に戻りますと、ひかりがあれば、そのもととなっている実体があるとするのは、ぼくらが世界を見るときの習性のようなもので、それによって万物の霊長としての地位を保つことができているのではないでしょうか。ぼくらの生きる戦略とも言うべきもの。ですから人間として生きていこうとする限り、原因や実体という眼鏡を手放すわけにはいきません。
 しかし、これは眼鏡ですから、ときにはそれが外れることもあるのではないか。日中は眼鏡なしではやっていけなくても、夜ふとんに入るときは眼鏡を外すように、普段は原因や実体という眼鏡なしではやっていけませんが、ふとそれが外れる瞬間があってもいいのではないでしょうか。
 ただ、この特別な眼鏡は、普通の眼鏡のように自分の意思で掛けたり外したりすることはできないようです。いまは必要だから掛けよう、いまは要らないから外そうというわけにはいかない。いつも掛けていますから、掛けていること自体を忘れているのですが、あるときふと外れていることに気づくのです。
 どんなときかといいますと、たとえば「不思議なひかりを感じてこころが温かくなったよ」と言うぼくに、妻が「そんなひかりわたしには見えないけど、どこからくるの」と不審な顔をするときです。そんなとき「そういえば、あのひかりを感じたとき、それがどこからくるかなんてことはまったく頭になかったな」と思い、「そうか、あのときは眼鏡が外れていたのに違いない」と気づくのです。


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