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無我ということ [『唯信鈔文意』を読む(その29)]

(15)無我ということ

 眼鏡が外れていることに気づいて、はじめていつもはそれを掛けていることに思い至るのです。逆に、外れたことのない人は、それを掛けていることに気づかないままではないでしょうか。
 ですから、ひかりがあれば、それを発する実体があるに決まっていると思います。ひかりだけがあって、その元がないなどということはありえない、いや、あってはならないのです。こえだけがあって、その主がいないなどと言うことは、「1+1は3である」と言うのと同じように、この世界において許されないのです。
 ところが、どういうわけか、いつも掛けている眼鏡がふと外れることがあります。そのときには、ひかりを感じているだけ、こえが聞こえているだけで、ぼくらはただほれぼれとひかりとこえに包み込まれています。ぼくらはこえと一つとなり、ひかりと一体となっています。
 釈迦が「無我」ということばで言おうとしたのは、このことではないでしょうか。いつも掛けている眼鏡がとつぜん外れるというのは、普段ぼくらをがんじがらめにしている「われ」という縛りがふと緩むということではないか。そのときぼくらは「無我」の状態になっているのです。
 「無我」は、そうなろうとしてなれるものではありません。どういうわけか、あるとき気がついたら「無我」の状態になっているのです。そしてそのときぼくらは「南無阿弥陀仏」の「こえ」と一つになっています。
 「この如来の尊号は不可称不可説不可思議にましまして」と親鸞は述べていましたが、「南無阿弥陀仏」というのは、言ってみれば宇宙の不可思議な「こえ」、「そのまま生きていていい」というメッセージです。それが聞こえるだけでぼくらは救われるのです。

             (第2回 完)

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