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ひとへに御なをとなふる人のみ [『唯信鈔文意』を読む(その31)]

(2)ひとへに御なをとなふる人のみ
 
 この箇所で真っ先に気になるのは「ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生す」という文言です。なにか排他的な匂いがしてくるからです。
 南無阿弥陀仏と称える人だけが往生できます(救われます)、それ以外の人はダメですよと言っているように聞こえてしまうのです。しかし、そういうことではないでしょう。念仏しなければ往生できませんよと条件をつけているのではなく、往生を求めて念仏するような人は、必ず往生できるのですと言っているに違いありません。必要とする人にはもれなく与えられますよ、と。
 文化センターの講座で、弥陀の「ひかり」と「こえ」は、わけ隔てなくすべての人に届けられているとお話しましたところ、ある方から質問がありました。「ほんとうにあらゆる人に届けられているのでしょうか、一生届かない人がいるのではないでしょうか」と。ぼくはこう答えました、「必要な人には必ず届くと思いますよ」と。
 届けられているのに、それに気づかない人がいるのは確かです。それは多分それを必要としていない人です。必要としていないのですから、届かなくてもいいでしょう。問題はそれが必要な人です。必要なのに届かないとすれば、これは大変です。でも心配御無用、その人には必ず届いていると思うのです。
 どうしてそんなことが言えるのか。
 何かを必要とするということは、欠如(英語ではwantです)があるということに他なりません。その欠如が埋まらないと完全なかたちになれない。ぼくの頭に浮かぶのはプラトンの著作『饗宴』です。愛(エロース)とは何かについてみんなで議論する場面で、喜劇作家アリストパネスがアンドロギュロスの話を持ち出します。


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