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二種類の欠如 [『唯信鈔文意』を読む(その33)]

(4)二種類の欠如

 どうやら欠如には大きく二種類あるようです。
 お金の欠如、名誉の欠如、若さの欠如、健康の欠如、愛の欠如など、ぼくらはさまざまな欠如を抱えています。こうした欠如は、それを感じたからといって、必ず埋められるわけではありません。いつでもどこでも、すぐそこにあるものではないからです。ぼくらはそれを求めて出かけなければなりません。あっけなく見つけることもあれば、どんなに苦労して探し求めても手に入れることができないこともあります。
 これがひとつ目の欠如で、どこにでも転がっていて分かりやすい。
 しかし、もうひとつの欠如があります。こちらは目立たないかもしれませんが、これがありませんと、たとえ上にあげた欠如がすべて満たされたとしても、なおかつ何かが足りないと感じる。ぼくはそんな欠如を感じないよという人もいるでしょうが、感じなければ問題ありません。
 しかし、この欠如に悩む人は、干上がったしまった水溜りの魚のようなもので、それ以外は何不自由ないとしても、生き続けることに困難を感じます。それは「こんな自分がこのまま生きていていいのか」という鉛のような問いを抱えてしまった人です。ぼくが「本願が必要な人には必ず届きますよ」と言ったのはこのような人のことです。
 善導の二種深信をこの角度から捉えることができます。善導は信にふたつあると言います。ひとつは「こんな自分が救われるはずがない」という信で、もうひとつは「こんな自分のまま救われる」という信です。この一見どうしようもなく矛盾しているふたつの信が実はひとつだというのが二種深信論のみそです。


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