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求めよ、さらば与えられん [『唯信鈔文意』を読む(その34)]

(5)求めよ、さらば与えられん

 「こんな自分が救われるはずがない」と「こんな自分のまま救われる」。この二つが実はひとつであるということは、取りも直さず「本願が必要な人には必ず届く」ということです。「こんな自分が救われるはずがない」と思う人こそ本願を必要とする人で、その人には必ず「そのままで救われる」という本願が届くということ。
 聖書に「求めよ、さらば与えられん」とありますが、これも同じことを言おうとしているのでしょう。これをうっかり「求めて一生懸命つくしなさい、そうすればその努力は報われますよ」と受け取ってしまっては台無しです。そうではなく、「求める人は、あるときふと、もうすでに与えられていることに気づきます」ということです。
 求めるこころと与えるこころはひとつであるということ。
 真宗の教学で「機法一体」というのはこのことです。機とはわれらの求めるこころ、法とは如来の与えるこころです。とはいっても、こちらに求めるこころがあり、あちらに与えるこころがあるのではありません。求めるこころが芽生えたとき、すでにそこには与えるこころが芽生えているのです。求めるこころが芽生えることと与えるこころが芽生えることは別ではありません。
 「ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生す」とは、念仏しなければ往生できませんよ、と脅しているのではありません。「こんな自分が往生できるわけがないと思っている人よ、あなたにこそ本願は届けられているのですよ」と言っているのです。「南無」と求めるところに「阿弥陀仏」はもうすでにおわしますよと。「南無阿弥陀仏」とはそういうことです。
 「南無」(機)のないところに「阿弥陀仏」(法)はおわしまさず、「阿弥陀仏」のおわしまさないところに「南無」はありません。


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