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「存在する」とは [『唯信鈔文意』を読む(その37)]

(8)「存在する」とは

 「南無」(たのむこころ)のないところに「阿弥陀仏」(救うこころ)はないというのは、「阿弥陀仏」はいつでもどこでも存在するが、「南無」のないところでは、それに気づかないということです。「阿弥陀仏」はたのまれなくても「みづから」寄りそってくださっているのです。ところが「南無」の思いがなければ、そのことに気づかず通り過ぎてしまう。ですから、その人には「阿弥陀仏」は存在しません。
 つい今しがた「阿弥陀仏」はいつでもどこでも存在すると言ったばかりなのに、ここで、気づく人には存在し、気づかない人には存在しないと言う。これにはきっと反発があるに違いありません。いつでもどこでも存在するなら、人によって存在したり、存在しなかったりなどということはないはずだと。
 あるものが「存在する」ということ、ここには謎が満ちています。
 よく出す例ですが、コロンブスがアメリカ大陸を発見するまでは、ヨーロッパの人たちにとってアメリカ大陸は存在しなかったか。
 答え・その1。存在しなかったに決まっているじゃないか。彼らにとってアメリカ大陸なんてどこにもなかった。だからこそコロンブスの発見は驚きだったのだ。
 答え・その2。いや、コロンブス以前からアメリカ大陸は存在していたのだが、それが知られていなかっただけだよ。コロンブスはアメリカ大陸を「発明」したのではなく「発見」しただけだ。
 「存在する」というのは「存在することが知られている」ということか、それとも「知る、知らないに関係なく存在する」ということか。


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