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客観的ということ [『唯信鈔文意』を読む(その40)]

(11)客観的ということ

 さて南無阿弥陀仏に戻りまして、前に阿弥陀仏はいつでもどこでも寄りそってくださるが、南無のないところでは、それに気づかず、阿弥陀仏はどこにも存在しないことになると言いました。気づく人には存在し、気づかない人には存在しないと。これはいま言いました客観性の原則に反するのではないでしょうか。
 「ある人には存在し、ある人には存在しない、以上おわり」では議論になりません。幽霊の場合も、「幽霊を見た」と言う人に「そうですか、ではあなたには幽霊は存在するのでしょう、でもわたしには存在しません」と応じる人はそれ以上の会話を拒否していると言わざるをえません。会話が成り立つということは、「存在するとは誰にとっても存在することだ」という前提があるということです。
 では南無阿弥陀仏について議論は成り立たないのでしょうか。『歎異抄』第2章のおわりに、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」という親鸞のことばが出てきますが、念仏をとるか、すてるかは、あなた方次第だというのは、これは議論すべきことではないと受け取ることもできます。
 文化センターで「南無阿弥陀仏というのは、弥陀の『帰っておいで』という呼びかけの声です」というように言いますと、「どうすればその声が聞こえるのでしょう」という質問が必ずと言っていいほど出ます。もっともな質問ですが、しかしこれには答えようがありません。
 どういうわけか、ある人には聞こえ、どういうわけか、ある人には聞こえない。ここには客観性がないのです。


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