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主観的に存在するだけで十分 [『唯信鈔文意』を読む(その41)]

(12)主観的に存在するだけで十分

 こうすれば聞こえますと言うことができて、はじめてその声は客観的に存在すると言えますが、残念ながら「こうすれば」が言えない。ですから「そんな声は存在するという資格はない」と言われたら、「その通りです」と応えるしかありません。「でも」とつけ加えるでしょうが。「でも、ぼくにはその声が聞こえ、それに救われたのですから、もうそれで十分です」と。
 どうやら、客観的に存在することが必要なものと、主観的に存在するだけで十分なものの二種類があるようです。
 南無阿弥陀仏は後者の典型ですが、前に検討しました死者の存在も後者の例ではないでしょうか。ぼくの亡き母はぼくにとってまごうかたなく存在します。こころの中とか頭の中にではありません、どこと特定することはできないとしても、ぼくの外にちゃんと存在します。
 でもそれはぼくにとって、あるいは母にゆかりのある人にとってであり、それ以外の人にはどこにも存在しないでしょう。その意味で亡き母は主観的に存在するだけですが、それで十分で、誰にとっても存在しなければならないとはまったく思いません。そんな存在もあるということです。
 さてしかし、まだ問題は終っていません。南無阿弥陀仏は主観的に存在するだけ、と言いながら、その一方で南無阿弥陀仏はいつでもどこでも存在するというのはどういうことかという問題です。
 親鸞はこう言っていました、南無阿弥陀仏はこちらから頼まなくても「みづから」近づいてくださると。こちらの意向などお構いなしですから、いつでもどこでも誰にでも近づいてくださるということです。しかし、どうしてそんなことが言えるのか、どんな資格でそう言えるのか。

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