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本願に遇えたときが来迎のとき [『唯信鈔文意』を読む(その51)]

(6)本願に遇えたときが来迎のとき

 もし「来」とは如来がわれらを迎えに来てくださることだとしますと、『観無量寿経』にありますように、それはいのち終わらんとするときということになります。実際、浄土教において、来迎は臨終においてであるということは、もう当たり前のこととして受け止められてきました。
 ところが「来」とはわれら旅人が家に帰ることであるとしますと、話は変わってきます。旅路の途中で「ああ、帰りたい」と願ったそのとき、「帰っておいで」の声がしているのに気づき、まだ帰っていないのにもう帰ったような安心が得られる、これが来迎だとしますと、本願に遇えたときが来迎のときです。
 親鸞は「来」とは「帰る」ことだと言います。「帰る」というのですから、まだそこに着いたわけではありません。そこへ向かう途上にあるのです。しかし、帰るところがあり、そこへ向かっているということは、もうすでにそこに帰り着いているのと事実上変わりはないということです。
 旅から帰るときのことをもう一度思い浮かべてみましょう。帰る家があり、「帰っておいで」の声がしているということは、まだ家に着いたわけではありませんが、もうこころは家にいるのではないでしょうか。その意味で、すでに家に着いたのと変わりありません。
 南無阿弥陀仏はどう聞こえるかについて、これまで「そのままで救われる」という言い方と「そのままで救われている」という言い方をはっきり区別することなく使ってきました。「そのままで救われる」は「これから」のことですし、「そのままで救われている」は「もうすでに」のことですから、一緒くたにしてはいけないように思えますが、この二つは実はそれほど違わないのです。
 「そのままで救われる」という声が心に沁みますと、それは「もうすでに救われている」ことにほかならないのです。


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