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やぶれずかたぶかずみだれぬ [『唯信鈔文意』を読む(その54)]

(9)やぶれずかたぶかずみだれぬ

 誰かと会う約束をして、そのときを待つ間、ほんとうに来るのだろうかと疑いが兆すことがあります(巌流島で武蔵を待つ小次郎)。ちゃんと約束をしていてもこうですから、不確かなことを待つのはもう不安との戦いの連続です。そんなとき「一念もうたがふこころなき」ことなどあるものでしょうか。
 親鸞は「やぶれずかたぶかずみだれぬ」と言うのですが、どうしてそんなことがありうるのか。
 普通、何かを待つとき、待っている何かが大事で、待つこと自体は何かを手に入れるためにやむなく通らなければならないプロセスに過ぎないとみなされます。何かを手に入れるまでは、意識はその何かに向いていますし、手に入れたら入れたで、それまでのプロセスがどれほど長く苦しかろうと、もうそんなことはどうでもいいとして忘れられてしまいます。
 待つということは割が合わないと言わなければなりません。
 美味しいと評判のお店には長い行列ができます。その中に混じってじっと順番を待つのは根気のいることですが、あの美味しい食べ物を口に入れるにはやむを得ないと我慢をします。待つことは我慢しなければならないことなのです。ですから、待ち時間が少しでも短縮されますと嬉しくなりますし、待ち時間があまりに長いと我慢の限度を超えて「いつまで待たせるんだ」と叫びたくなります。
 美味しい食べ物が「善きもの」であり、それを手に入れるために待つことは「必要悪」です。待つということはいかにもかわいそうです。だからこそ、待つこころは「やぶれやすく、かたぶきやすく、みだれやすい」のです。それが「やぶれずかたぶかずみだれぬ」などということがどうして可能なのか。


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