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待つこと自体に意味がある [『唯信鈔文意』を読む(その55)]

(10)待つこと自体に意味がある

 待つことが「やぶれずかたぶかずみだれぬ」ものであるかどうかは、待つことそのものに意味があると感じられるかどうかにかかっていると言えます。
 もちろん「何か」を「待つ」のですが、その「何か」に重きがあるのではなく、「待つ」に重きがあると思えるかどうかということです。もうひとつ踏み込んで言えば、たとえ「何か」が得られなくても、それでも「待つ」ことに意味があると思えるかどうか。
 普通は「何か」が得られなかったら、「待つ」ことは無駄だったとなります。行列のできるお店で順番を待ったのに、自分の番が来るまでに売り切れてしまったら、無駄骨を折ったということです。それがぼくらの身の周りにある「待つ」のほとんどすべてと言っていいでしよう。
 しかし「待つ」こと自体に意味があり、たとえ「何か」が得られなくても、それはそれでいいと思える場合があります。それは「何か」を「待つ」ことにおいて、すでにそれが得られたと感じられる場合です。まだ得られていないのに、もう得られたと感じる、だから実際には得られないとしてもそれはそれでいい。
 どうやら「待つ」には二種類あるようです。何かを得ようと「待つ」のと、もう得られたと感じながら「待つ」のと。
 前者は分かりやすい。ぼくらの日常の「待つ」はこちらだからです。しかし後者は分かりにくい。「待つ」からには「これから」得るはずなのに、「もうすでに」得られたと感じるというのですから、矛盾しているように思えます。一体どういうことなのか。
 そこで親鸞は本願成就文を持ち出します。「願生彼国 即得往生 住不退転(かの国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん)」。



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