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願われている [『唯信鈔文意』を読む(その57)]

(12)願われている

 「かのくににむまれむとねがへ」、さすれば「すなわち往生す」と言います。キリスト教では「求めよ、さらば与えられん」と言いますが、同じことでしょう。この「願う」は、自分が「願う」には違いありませんが、それに先立って「願われている」と感じているのです。
 「帰っておいで」と「願われている」から「帰りたい」と「願う」。お盆や正月が近づきますと、田舎の親が「帰っておいで」と願ってくれていると思うから、「帰ろうかな」と思うものです。「帰っておいで」と願われているのが感じられなければ、「帰りたい」と思うこともないのではないか。
 まず自分が「願う」ことがなければなりません。これがすべてのはじまりです。周りがどれほど願っても、本人が願わないことには何ともならないのは、いろいろな場面で痛感することです。まず自分が願う。これでことが動き出しますが、しかしそれだけではゴールに至ることはできません。ゴールに至るためには前に進み続けなければなりません。周りがいろいろお膳立てしてくれるにしても、少なくとも願い続けることは不可欠です。希望をもち続けること、途中で「もういい」と投げ出さないこと、これが求められます。
 ところが「かのくににむまれむとねがふ」とき、自分がそう願うには違いないのですが、それに先立って「帰っておいで」と願われていることに気づきます。その声が聞こえています。だからこそ「帰っておいで」の声に、もうすでに帰っているという喜びがふつふつと湧き上がってきます。ですから、「帰りたい」のは間違いありませんが、でもたとえ帰れなくてもそれはそれでいいと思う。もうすでに帰っているのに〈ひとしい〉のですから。
 これが即得往生ということ、「帰りたい」と願ったそのときにもう帰っているということです。


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