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『唯信鈔文意』を読む(その68) ブログトップ

本文9 [『唯信鈔文意』を読む(その68)]

(7)本文9

 第2段です。少し長いですが、一気に読みましょう。

 「不簡貧窮将富貴(ふけんびんぐしょうふき)」といふは、不簡はえらばずきらはずといふ。貧窮はまづしくたしなきものなり。将はまさにといふ、もてといふ、ゐてゆくといふ。富貴はとめるひと、よきひとといふ。これらをまさにもてえらばずきらはず浄土へゐてゆくとなり。「不簡下智與高才(ふけんげちよこうさい)」といふは、下智は智慧あさくせばくすくなきものとなり。高才は才学ひろきもの。これらをえらばずきらはずとなり。「不簡多聞持浄戒(ふけんたもんじじょうかい)」といふは、多聞は聖教をひろくおほくきき信ずるなり。持はたもつといふ、たもつといふはならいまなぶことをうしなわずちらさぬなり。浄戒は大小乗のもろもろの戒行、五戒、八戒、十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行(さいぎょう)、梵網(ぼんもう)の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒(さんじゅじょうかい)、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを持といふ。かやうのさまざまの戒品をたもてるいみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに真実報土には往生をとぐるなり。みづからのおのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては、実報土にはむまれずとなり。「不簡破戒罪根深(ふけんはかいざいこんじん)」といふは、破戒はかみにあらわすところのよろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。罪根深といふは、十悪五逆の悪人、謗法闡提(ほうぼうせんだい)の罪人、おほよそ善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまのつみふかきひとを深といふ、ふかしといふことばなり。すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏(むげこうぶつ)の御ちかひにはきらはずえらばれず、これをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。真実信心をうれば実報土にむまるとおしえたまへるを浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。総迎来(そうこうらい)はすべてみな浄土へむかへかへらしむといへるなり。

 (現代語訳) 次の「貧窮と富貴とを簡(えら)ばず」ですが、「不簡」とは、選ばない、嫌わないということです。「貧窮」は、貧しく困窮しているもののことです。「将」は、「まさに」ということ、「もって」ということ、「伴いゆく」ということです。「富貴」は、富む人、尊い人ということです。これらを選ばず、嫌わず、浄土へ伴いゆくというのです。「下智と高才とを簡ばず」の「下智」というのは、智慧が浅く狭く少ないものということです。「高才」は、才能や学問が広いものです。これらを選ばず、嫌わないということです。「多聞と浄戒を持(たも)てるとを簡ばず」の「多聞」とは、聖教を広く多く聞き信じているということです。「持」は、保つということ、保つということは、習い学んだことを失ったり散らかしてしまったりしないということです。「浄戒」とは、大乗小乗のさまざまな戒行で、五戒、八戒、十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、梵網経の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等を言い、これらすべての僧俗の戒律を保つことを「持」と言います。このようにさまざまな戒律を保つ優れた人々も、他力真実の信心を得てはじめて真実の浄土へ往生できるのです。自らのそれぞれの戒行やそれぞれの自力の信心、自力の善行では、真実の浄土へは往生できないということです。「破戒と罪根の深きとを簡ばず」の「破戒」とは、すぐ前に上げましたすべての戒律を破り捨てたもので、そういうものを嫌わないということです。「罪根深」というのは、十悪五逆の悪人や法を謗り、悟りを求めないような罪人で、およそ善根が少なく、悪業が多いもの、善心が浅く、悪心が深いもの、そのような浅ましく罪深い人を「深」といい、ふかいということばです。無碍光仏のお誓いは全ての善い人、悪い人、尊い人、卑しい人を嫌わず選ばず、これを導こうとするのを先とし旨とするということです。真実の信心を得れば真実の浄土へ往生できると教えてくださるのが浄土真宗の正意と知るべきだというのです。「総迎来」は、全ての人をみな浄土へ迎え帰らせてあげようということです。


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