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法然の『選択本願念仏集』 [『唯信鈔文意』を読む(その69)]

(8)法然の『選択本願念仏集』
 
 ここで「不簡云々」という言い回しが四回繰り返されます。「不簡貧窮将富貴(ふけんびんぐしょうふき)」、「不簡下智與高才(ふけんげちよこうさい)」、「不簡多聞持浄戒(ふけんたもんじじょうかい)」、「不簡破戒罪根深(ふけんはかいざいこんじん)」の四つですが、この不簡とは「えらばず」で、「貧窮と富貴とをえらばず」、「下智と高才とをえらばず」、「多聞と浄戒をたもてるとをえらばず」、「破戒と罪根のふかきとをえらばず」ということです。
 これをどう理解するか。ここでも聖覚的なもの(法然的なもの)と親鸞的なものとの違いが滲み出てきていると言わなければなりません。
 この「不簡云々」からすぐ頭に浮かぶのが『選択本願念仏集』の次のくだりです、「もしそれ造像起塔(ぞうぞうきとう)をもって本願とせば、貧窮困乏(びんぐこんぼう)の類(たぐい)は定(さだ)んで往生の望を絶たむ。しかも富貴(ふき)の者は少なく、貧賎(ひんせん)の者は甚だ多し。もし智慧高才をもって本願とせば、愚鈍下智の者は定んで往生の望を絶たむ。しかも智慧の者は少なく、愚痴の者は甚だ多し云々」。
 法然はこう述べたすぐ後に、いまの慈愍三蔵の文を引用しているのですが、聖覚もこの法然の了解を下敷きにしているに違いありません。つまり、往生の因として「富貴」や「高才」はもとより、「多聞」や「持戒」を選べば、衆生の多くは「往生の望を絶」つであろうから、そのようなものは「えらばず」、ただ「弥陀の名号を称える」ことを選ばれたということです。
 法然は「選択とは、即ちこれ取捨の義なり」と言います。これを取り、あれを捨てるということです。ここでは富貴、高才、多聞等々を捨て、ただ称名を取るということ、これが選択ということです。としますと、「不簡(えらばず)」とは言うものの、最終的に称名を選んでいるということです。


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