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『唯信鈔文意』を読む(その70) ブログトップ

選ぶということ [『唯信鈔文意』を読む(その70)]

(9)選ぶということ

 『選択集』のもうひとつの有名な「選択」を上げておきましょう。「それ速やかに生死を離れむと欲(おも)はば、二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣(さしお)いて、浄土門に選入すべし。浄土門に入らむと欲はば、正雑二行の中に、しばらくもろもろの雑行を抛(なげす)てて、選じてまさに正行に帰すべし。正行を脩せむと欲はば、正助二業の中に、なほし助業を傍らにして、選じてまさに正定を専らにすべし。正定の業とは即ちこれ仏名を称するなり。み名を称すれば、必ず生ずることを得。仏の本願によるが故なり」。
 三選の文と呼ばれ、よく知られている文章ですが、ここでも決然と選ばなければならないとされます。
 さて親鸞の場合はと言いますと、「不簡(えらばず)」は文字通り「えらばずきらはず」ということです。「すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきらはずえらばれず、これをみちびきたまふ」とありますように、「あれを捨て、これを取る」ではなく、「あれも、これも」みな「きらはずえらばず」ということです。
 ここに親鸞の真骨頂があります。普通は、選り好みしないとは言っても、どこかで選択をしているのがわれらです。そうしたわが身からおしはかって、弥陀の本願といえども「あれも、これも」みな一律にということはないだろう、やはり「あれを捨て、これを取る」というものだろうと考えてしまいます。
 「選ぶ」ということについて少し考えてみましょう。ぼくらが何をするにせよ、「する」ということは、取りも直さず「選ぶ」ということです。


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