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届かなければ存在しない [『唯信鈔文意』を読む(その76)]

(15)届かなければ存在しない

 問題は後半です。「法蔵菩薩の誓願は十劫の昔に成就したのだから、念仏も信心も要らない、何をしようが、何をしまいが関係ない」ということにはならないのです。弥陀の本願があって、みんな浄土へ帰ることができるとしても、それを受けとる人がいなければ、本願は存在しないということです。親がどんな願いをもっていても、それが子に届かなければ、そもそも願いはありません。
 ぼくの妻は短歌の会に所属していて、例会に参加しては互いの歌を評価しあっているのですが、ときどきこんなふうにこぼします、「どんなに必死な思いで詠っているのか、誰も分かってくれない」と。ぼくは、こんなふうに言うのは酷かなと思いながら、しかし言います、「どんな必死の思いも、それが誰かに伝わらなければ、もともと歌の中になかったということだよ」と。
 誰かに届いてはじめて存在するということ。この「誰かに届く」というのが「誰かが信じる」ということに他なりません。ですから「本願は十劫の昔に成就した」ということは「その本願がいまここに届いた」ということであり、信心がなくては本願は存在しないのです。
 信心は往生の条件ではありません。弥陀の本願は条件をつけなければならないようなけちくさいものではありません。一人の例外もなく無条件で浄土へ迎えてくれるのです。しかし、いかにそうであっても、その本願に気づかない人には、本願はどこにも存在しません。ですから、その人にとって、浄土へ迎えてもらえるなどというのは馬の耳に念仏でしかありません。
 信心などなくても往生できるのです。でも、信心がないということは、そのことに気づいていないということです。

              (第5回 完)

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